接触で消える意欲

http://game.g.hatena.ne.jp/Nao_u/20050802#p1
 身近な相手はライバル視して「競う喜び」を、手の届かない相手はリスペクトして「近付く喜び」を…と、違う種類の喜びを使い分けることは珍しくないと思うのですが、情報化社会とは言っても、そのための情報まで同じペースで増加しているわけでは無いんですよね。
 たとえばネットランキングで自分の位置を確認できたとしても、流通しているのが得点や勝率といった限定的な情報だけだと、相手の個性が見えず、ランクアップのためのノルマとしてしか受け取れなかったり、とか。

 しかし、これは「ある程度デキる人がさらに高みを目指す」もしくは「わかる人が高度な技に酔いしれる」ような例であって、はじめてテトリスを見るまったくの初心者にも同じように感じられるものだろうか?あくまで個人的な例で申し訳ないけれど、少なくとも自分は、アーケードの縦STGの攻略ビデオやDDRポップンミュージックなどの音ゲーのスーパープレイなどを見ても、もはや「この人たち、どこかおかしい」としか感じられない・・・。余りに高いレベルに最初からアクセスできるのも考え物かもしれない。昔に比べると、自分が0から何かを始めるときにそれが障害になってしまうこともあるだろうと思う。

 これについては、パターンゲームか否かも関わっていると思います。
 上手いプレイヤーから学んだテクニックを、目の前の局面でどう活かすかは自分次第でしょうけど、パターンが用意されたゲームになるほど、「このプレイをトレースするのが一番なんじゃないか」と、パズルの解法を先に提示されてしまったような感覚*1が付きまとってくるはずですから。

*1:解は一つではなく、提示された解が最上であるかの保証も無い。そして当然ながらアクション性にも依存するため、「だからスーパープレイ晒しは意欲を殺ぐ」とは単純に言い切れないと思っていますけども。